昭和46年09月20日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日とおり。」

 八十五節の御理解から女の身の上というだけの事ではなくて、お道の信心をさせて貰う信奉者の、どうでも此処だけは体得しとかねばならないという。体得して行く事をいよいよあか抜けしたものにして行かねばならんというものを感じます。例えて申しますと常識というものを無視した御理解ですね。又は医学と言った様なものを無視してありますね。現代医学なら現代医学を無視してある。生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、等と言う事は、現代の医学からいうたら無視した事だと思いますね。
 けどもその後が素晴らしい、頭痛、血の道、虫気なしと仰る。例えば産後にいろいろな体の異常が起こる、という様なことが更々ないと、不浄毒断なし、平日の通り、平日の通りのおかげが受けられると。そこにね、私は金光様の御信心は常識的でなくて、或る意味では非常識だと例えばこういうことをしておったら、それこそ非常識極まりないと思いますけれども、そこをいよいよ頂かして貰うて味わうと、非常識ぢゃないなあ、超常識だなあということが感じられます。
 ですから金光様の御信心をさせて頂いたら、ここのところを或る意味では、我武者羅にでも、一つ体得させて頂いて、しかもその我武者羅にでも、そこんところを頂かせて貰った信心が。段々信心が本当なものにあか抜けして行くと言う様な、おかげを受けなければならないと思う。例えばこれは骨董品に限らんのですけれども、お道具なんかでもね、昔のがっちりした家具とかいろんな器具、機材と言った様なものはなかなか、がっちりと出来ておりますよね。
 昔のタンスならタンスでもそれはもう本当にがっちりしたもの、強いだけではなくて何とはなしにその当時のセンスを傾けたものであればある程それは美事、美術品という様なものが、例えば家具の中にでもございますですね。だからそういう例えば昔の古い立派な物だというて、それが放ってあったのでは値打ちがない。何十年かいや百年近くもなりますけども、それが代々ずうっと手入れに手入れがされてあってそれこそ底光りがする様なとてもいっときで出来る艶じゃないと言った様な。
 例えば艶が出てこそ始めて古いものの良さというものがあるのです。もう垢だらけ、汚れだらけ、疵だらけろいうのでは値打ちはないですよね。それが例えばタンスならばタンスでもそうです。昔のタンスは素晴らしいそれが丁寧に使はれている。拭き上げられてそれこそ大事に使われて、それが百年も使われておるというのであったら値打ちものです。これはもう古かけん値打ちというものではないです。それはもうろくそに使うとるけん疵だらけ、拭きはせんから垢だらけと、いうのでは値打ちはないでしょう。
 というて新しい家具なら家具でもそうです、年々歳々新しい形が出来ていきよる、ただ新しいだけでは値打ちはない。斬新さという中にやはり何というか使い勝手の良いというか、中々考えた例えば家具なら家具といった様なものが新しい値打ちであってただ新しいだけではいかん。信心も同じ事です。ややもすると信心も新しい方向になりますと、もう頭でっかちになりましては。言論の上になり立った宗教になりかねない。それかというて、もう私の方の信心は親子孫と続いて七十年も八十年も続いております。
 というてもです、例えば今日申します様に、金光教の信心の頂いておる本当の値打ちというものをもう発揮し得なくなったらもう値打ちはない。さあどうかあると言えばすぐ薬、どうかあると言えばすぐ人間心ばかり使わねばならない信心がです、何代続いたからと言って値打ちはなか。それこそ神を杖につけば楽じゃと仰られる。神を杖につけば楽ぢゃという様な信心が永く続いて確かにそうだと確信が持てれる様な、生活が出来てからこそ本当なもの、信心の初めのころは。
 そこのところを我武者羅にでも体得しようと例えば頭が痛かったっちゃ頭痛がしても腹が痛かったっちゃお神酒さん、御神米さんだけで頂くと一生懸命つとめる。そしておかげ、まあ良かったり良くなかったりだけれども、これはまだ自分の信心がたらんのだ、頂き方がまずいのだという様な風でそこのところを繰り返し、我武者羅にでももう御神米一本で、お神酒様一本でおかげを頂くという様なところが出来ていっておる内に確かに薬一服頂かんで済む。
 私も方なんかそうです、もう何十年間薬一服頂きません。医者に手一つ握ってもらいません。それは例えばはじめの間は我武者羅な稽古だったけれども、今はそれがもう身についてしまっておる。もうそれは家の一つの家風というには当たらないでしょが、もうそれは家風になりきってしまっている、さあどうか、なりゃすぐお医者さんに電話かけてみにゃというものではない、今日のこの八十五節はね、そこのところをいつてあるのですよ、だから女の妊婦の時だけのことじやない。
 出産のときだけのことじゃない一事が万事にです、神様のおかげを頂けば、平日の通りおかげが受けられるどういう場合であっても、例えば妊娠のおかげを頂けばつわりというものはもう当たり前のごと思うておる、けども、そういうことでもなくなると、おっしゃられとる。だからお取次ぎ頂いておると、つわりもおかげで軽かった、軽かったじゃない、まだ、本当の頂き方ができとらんから、本当いうたらそんなものはないのだと、平日の通りのおかげが頂かれんのだとして。
 がむしゃらにでもそれを身につけていこうとする信心が必要である金光様の信心は。いかにもあまり、原始的な表現かも知れませんけれどもね、私どものなんかの信心というたら、ならば私どもが転んで膝坊主をすりむきますよね、それで私どもは、さあ早うお神酒さんお神酒というところですけれども、それが外に遊びに行っとるときか何かには、生神金光大神、天地金乃神さまというて、お土地のきれいなところをとって生神金光大神さま、天地金乃神様というてお土を塗っておりました。
 それは本当に非常識といえば、まあ現代の人はいうかも知れませんけども、実をいうたら、そのお土地の御恩恵に依って傷くらいは直して貰えるて、そしてんならば現代の医学でね、お土地の中にはそういう病気を癒す所の働きを持っていると言う様な事が、証明されてきよりますよね、ここにもありますように妊婦したかというて、例えば帯びかけ等と言う事をしますけど、私どもの家内達は腹帯したことはありません。
 教祖は腹帯はいらんと仰るのだから、腹帯をした事はありません、ですから医学を無視した事の様に思いよったけども、最近の産婦人科の先生は本当は帯びをしない方がよいですよというです。変わってきた本当な事が分かって来た訳です、だから本当にお土を煎じて飲む時代が来るかも知れません。傷口にはお土地をつけて湿布したら良いという時期が来るかも知れませんね、ですからそう言う事は別としてです。
 金光様の信心させて貰いよれば、そういう教祖が教えておられる。まあ非常識と思われる様な事でもです、金光教の信心者の常識として頂いていかねばならないと言う事、それをてからみると非常識という、けれどもそれを、金光様の信心をさせて頂くものは、常識としている。だから脇からみると非常識ですけれども、それをまた言葉を変えていうと超常識である、だから平日の通りと言う様なおかげが受けられるのである。
 なかなかね、その観念というものはなかなか本気で信心させて頂くものは、ある意味では我武者羅に教祖がおっしゃておられるものは、本当なものと頂かして頂くためにです、本気で取組ませて頂くという姿勢がないとです、いつまでたっても五十年経っても六十年経っても同じことです。このごろから、この方はお母さんがある教会で熱心に信心されておりますから、二代目の信心です。
 まあここにも熱心に一家中で参ってきます、その最近聞かせて頂いたんですけども、この人の家は非常に熱心に信心するけれども、非常に迷信的です、まだ今だに縫い物、裁ち物するのに暦を見られる、勿論、普請作事または日柄方位と言った様なものは、もう心からそれを信じてござる。嫁さん達が表に出るときに、左足からでろうとすると、あぁというて右足から出らんならんときまっとる、左足から出ていかん。
 それはもう徹底してある、それでもうお嫁さんというても、もうお母さんですけども私ども嫁のときからずうっと、いわれてきておりますから、今はどこに行くにでも絶対に右足からしかでらんそうです。もうずうっといわれてきてあるからですね、身についてきたんです、だからそれが反対に身につかにゃいけんといってる訳です。一寸やはりですね、表に出るとき敷居をまたぐるときに、絶対に左足からでる、あぁ今のはあんた左足からぢゃったばのちゆてから。
 右足からまたでなおさねばいけんと言うた様な、でこのごろから、大変難儀な問題がおこりましてね。私がそこんところをしっかりいうて聞かせた、一家中の者が、例えばそう言う事をすれば、それが良い悪いではなくてね、そうすることが天地に対する御無礼になるとよと私が、日柄方位を言うたり、そういう迷信的なことをいうのは前々のめぐりで難儀を受けておるという難儀の元とはそういう天地に対する無礼な考え方やら行き方こそが前々のめぐりの難を受けおるとです。
 だから昔から言うてあることだからというて、それだけで済めばそれがよい。決してそれでは済まん。昔からいうてあることをするから、昔からそういう難儀な元を作ってきたのですから、ここに改めて金光教の信心が生まれた。そういう見当違いの生き方では、めぐりを積むぞとはっきり教祖は教えておられるのだから金光様を信心させて貰えばそこんところを大事に一掃していかねばいかん。
 そこで初めの間はちっとは気色の悪か、やはり今まで日柄を見て来たり方位を見てきたり、しとるとじゃからけれどもお取り次ぎを頂いてしておる事であるから、例えば普請をさせて頂くのしても、もう使い勝手の良いのが、よい家相だと言う様な頂き方が出来るために一ぺんそれを一新しなければ今までの行き方と一新して行かなければいかん。今までの行き方を蹴たくって行かにゃいかん。そして新な本当の行き方をせにゃいかん、その本当の行き方を信心のない人やら薄い人は、常識を欠いたと言うかも知れん。
 けれどもそれが身についていかねばだめだ、おかげを頂いてその難儀な問題ですけれどもおかげ頂いた。そしたらこのごろから四、五日前でした、息子がでてきてから炊事場のほうが少しそぜておるから、他所の古い材料を貰ってきてから、勝手の方を作り直すというお届け。今日は日曜日ですから家族中であそこの所を直したいと言ってお届けがあっとった。それで私は日曜日の日はそれができたもんだと思うとった。それから二、三日して参ってきたからですね、皆で炊事場を壊しかかってからしよった。
 そしたら、近所の人がきてからあの他のところの古い家を壊してからすぐ使うのは、そこの因縁がかかってきとるけんでいかんと誰かが教えてくれた。古い家の材料は半年なりと一年なりと、置かねばいかんという訳です。そんならというてから、しかかってから、もう弾んでおったけれどももうやめてしもうた。というてここで平気でお取り次ぎを願うのがもう私は本当になんといいますか、淋しかったですね。
 ついこのごろ、あぁいう難儀なことが起こって、そういう問題があんた方のそういう迷信が、取り壊して一掃してご覧おかげになるけんというて一家中話し合っておかげを頂いた、おかげを頂いたばっかりの、もう1カ月もたたないうちにですよ、他所の古材を使えば縁起が悪かとか、まだ日にちをおかねばいけんとかいうて、折角その日に思い立ったことまでやめて所謂、窮屈な世界の中にまた入って行こうとしておる。
 これは例えば、日常茶飯事の中に、私どもが迷信をやはり、それを信じてきた、そういう生活から一掃するでもやはり、いろいろその気にならなければ出来ないということ。すぐこよみをみて見ようとする、すぐ縁起が良いの悪いのと担ぐ、担ぐだけならよいが、担ぐそのことが神様に対して御無礼になるというのですから、私は今日のここんところいうならば、常識を無視し、医学を無視したような、いや無視したようなでなく、もう無視してある訳です。
 生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませにゃと、けどもそこんところを私達が本気で、教祖はそうおっしゃられとるけど今までのや張り言うて来た事が本当の事じゃろうと言う様なですね、ほんなこっじゃろうでなくて、それを実行すると言う事は、いつまでたっても垢抜けしない。信心が五十年たっても六十年たっても、ただ信心が古いというだけでです。一つも金光様の御信心を頂いておる、どの様な場合でも平日の通り、神を杖につけば楽ぢゃと言う様なおかげにあか抜けしてきとらん。
 おかげを頂いて私共当りは、それを本気で取り組んできた。普請作事の事でも、自分の体の上の事でもです、いわゆる御神米とお神酒さまでおかげの頂かれる、いや自分が改まりさえすればおかげが頂かれる。お取り次ぎを頂いて頂けるというものがです、もう家は金光様の信心しよるけん義理でも薬は飲めんと言う様なものじゃない訳ですよ。そげな事しよるけんこっそりと薬を飲まにゃいけんと言う事になってくる。
 と言うてですね、私は医者に手を握らした事もなければ薬も飲まんと言う事じゃなくて、それはね担々としたものでなければならないと言う事、まあ最近私は歯医者にやらして頂いた。まあ何か知らんけど薬を二通り程下さる。それを飲めば良くなるとか、悪くなるとかぢゃない。まあ飲みなさいと言われるから飲みよる。おかげというか本当になかなか行ずる事は難しい。
 飲まんならんとわかっていてもつい忘れてしまってたまってしまう。まあそう言う事になってますけどね。そう言う事にはこだわらない、全然。その薬飲んでから腹の痛かつを治そうなんて思うてもいない。おかげを神様から頂かなければ頂けるものぢゃないという思い込みと言うものがです、これは古い道具を手入れに手入れをさせて頂いて、今、光りを放っておるような思い方と思いますね。
 そういう思い方は、ところが信心が段々段々長うなって信心は古かばってん、まだどうかあったら、医者ばい薬ばいと言う事であったら、今日の御理解からいうたらもう信心を頂いとる値打ちがないです。いわゆる信心生活の中に頂ききっていない、どこまでも常識的なしかしとらんと言う事になる。だから常識的なおかげしか受けていない、と言う事にまでなるのです。教えを頂いて金光様のご信心ちゃ本当に素晴らしい信心だと分らせて頂く為には、いわゆる我武者羅にでも教えられたことを本気でです。
 転んでわくわくするごとある、怪我の中に土を入れてぬりつけると言う事はしきらんでも、一寸擦りむいた位なら、天地金乃神様生神金光様の御恩徳を以てというてです、これはやはり擦りつけてみる位の、稽古はやはり要るのです。そして段々わくわくすることある傷にでも、土でおかげの頂かれるところまでひとついかねばいかんです、私どもはその稽古をしたですね昔、これこそもう竹の切り株の上にぽんと飛び降りてから、足の裏がざくろのごとわくわくするする中に田んぼだからすぐ土が入った。
 けれどもそれを決して出そうと思はなかった、これで、これでおかげを頂くと思うたですね、やはりおかげを頂いた、おかげ頂くしかも早い、ところがこの時なんかはもう、本当にもうどげな薬でも勝たんと言う位早くよくなった、まあようなったかのように見えたのです。つうが出来て少しばかり痒くなってきて、その時に油断が出来たんですね、痒くなってきたときに、それからお風呂に入ってむかぜというのですかね。
 そこから化膿しだした、それは一月位かかりました。けれどそこはまだ自分の信心がたりなかったと思うて、またそこんところを一生懸命稽古させて貰った、やはりこのさい薬をこのさい注射をせねばという思いは全くなかった。そこんところは自分の信心がまだ足らんのだとして、やはりおかげ頂いた、治るのに一月位かかったけれども、だから最後の最後まで本気で頂きぬいとったら、その土でおかげを頂いとつた。
 もうおかげ頂いたかにみえた、もうつうがぽろっと取れれば良いと言う所までいっとった。けどもこちらの信がたらん、だからそういう稽古です。私は我武者羅ともうしましたが、我武者羅のままで、いっぺん頭が痛いから、風邪をひいたから、くらいの所からですね、すぐ頓服とか風邪薬とか、頭が痛ければノーシンといわずに、本気で御神米でおかげが頂けるという確信。そういう信心をさしてもらいよるとです。
 隅田先生ぢゃなかばってん、金光さまの信心してから、金光さまの信心しよりや病気はしませんよといわれた、そういうおかげになってくるです、金光さまの信心は所謂、平日の通りなのです。私は今日八十五節から本当に信心のない人から聞いたらびっくりするような、非常識なことを教祖はおっしゃっとると思うくらいに、けれどもそれは超常識につながること、その超のつくほどのおかげをすっきりと頂く稽古が必要。
 信心が長いばかりじゃいかん、それこそ、その信心の手入れをせんから、家の信心はもう百年にもなりますというたところが、がたがた垢だらけ、それでは古い値打ちはさらさらありません。信心の古いに値打ちはない、なるほど信心させて頂けば本当なことがスキッと思い込めれる信心、光りを放っ程しの思い方、金光さまの信心しよりや病気はしませんよといえる程しのところまで、おかげを頂きたいものですね。
どうぞ